紅の豚次郎「真砂女」の俳句旅

俳人鈴木真砂女の「銀座に生きる」をたずねて

残暑を乗り切る

 立秋はとっくに過ぎて、俳句の季語も秋に変わっているものの、暑さは続く。

 この暑さの中、飼っている白目高は、親が二匹とも死んでしまった。最初に餌を食べなくなったメスが死に、それから一月も経たないうちにオスが死んだ。しかし子供たちは元気一杯。20数匹の子目高はピッピッ、ピッピッと、火鉢や備前焼の鉢の中を泳いでいる。

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 さて、真砂女さんの句に夏の食べ物、冷奴を詠んだものがいくつあるか数えてみたら、六句あるようだ。それを今回はご紹介したい。

 まず昭和55年の句。

 「冷奴いつも通りにいつもの客」

 私も夏と言えば、冷奴だ。大方の皆さんも好きな食べ物だろう。まずこれを注文して酒を飲む。暑さにやられて緩んだ体がシャキッとしてくるはずだ。

 昭和63年の句。

 「冷奴歎きの酒もありぬべし」

 真砂女さんの句には別に湯豆腐の句があり、そこでは「湯豆腐や男の歎ききくことも」と詠われる。豆腐には、人の痛んだ心に入り込んで優しく気持ちをほぐすという効能がありそうだ。

 平成元年の作で、ハワイで行われた孫の結婚式から戻ってきたときの句。

 「帰国してその夜の卓の冷奴」

 日本に戻ってくると、やれやれと冷奴が食べたくなるんだね。

 平成元年にもう一句。

 「八丁堀より配達の新豆腐」

 豆腐屋さんは、銀座や日本橋などに今どのくらい残っているだろう。八丁堀は銀座から近いと言えば近いが、わざわざという感じもする。自転車でも大丈夫な距離ではある。

 平成2年の句。

 「冷奴藍の器に叶ひけり」

 キリリとした紺浴衣姿の真砂女さんに「どうぞ」と出された冷奴は、藍の器に盛られていた。豆腐の白さが際立って旨そうだ。暑さが吹っ飛ぶね。

 そして、暑さが吹っ飛ぶと言えば、平成7年以降に作られたこの句で決まり。

 「何ごとも半端は嫌ひ冷奴」

 潔い生き方をされた真砂女さんらしい一句だ。スカッとしているじゃぁありませんか。 

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築地場外魚河岸の今

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 アガパンサスの花。愛の花とも。
 形の良い細長い葉っぱの流れが印象的。
 花言葉は「恋の訪れ」「ラブレター」など。ちょうど今が盛りか。
 
 「白玉や愛す人にも嘘ついて」(昭和44年 鈴木真砂女
 冷えた白玉ぜんざいを口に運んだ時、ちょうど恋人からの電話。でもちょっとこれを食べ終わってからと思ったので、「今手が離せないの、あとで折り返すね。」と返事をして電話を切った…というような状況だったのでは。
 梅雨明けが待ち遠しくなってきた先日、築地に行ってみた。
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(築地4丁目交差点)
  築地市場が、豊洲に移転してから二度目だった。前回は土曜日だったからか、その人の多さにあきれるほどですぐに帰った。
 この日は、がらがらで外国人観光客の姿が目立つ程度。
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 これはまだ移転前の場内の様子で、箱を背負って歩く仲買人さんや荷を積んだターレが颯爽と場内を走っている。
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 現在の場外の様子。午後5時に近いので、店じまいしたところが多い。
「買い出しの日の夏帯を小さく結び」(昭和43年 真砂女)
 真砂女さんが、買い出しに行った店が残ってないだろうかと探した。野菜や果物を売っていたつまやの藤本商店、鮪仲卸のヨモ七である。
 当時のヨモ七の社長のお母さんでとみ女さんという方は、真砂女さんの俳句仲間だったそうである。昭和43年というと、真砂女さんは62才。
 ぐるぐる細い通りまで歩き回ったが、二つの店とも見つからなかった。豊洲に移転したのかも知れないし、廃業したのかも知れない。ずいぶん時代は変わったから。
 しかし、静かに変わらないものもある。
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 波除稲荷神社(なみよけいなりじんじゃ)である。創建は1659年(万治年間)。当時築地の埋め立て工事が行われていた。社殿を建て海で発見されたご神体を祀ったところ、荒波は収まり工事が順調に進捗したという。
 航海安全、災難除け、厄除けなどで信仰を集める神社。こじんまりとした境内に入ると、社殿などの他、玉子塚、すし塚、海老塚、鮟鱇塚、活魚塚、昆布塚、蛤石やおきつね様が祭られている。 
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  「波除にねずみかくるゝ土用かな」(昭和31年真砂女)
 あの牛丼の吉野家の塚もあり、真砂女さんが訪れていた頃より、だいぶ塚の数は増えたのではないか。
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 「築地宮川土用丑の日迎へけり」  (昭和57年真砂女) 
 家族連れらしい外国人観光客が、塚の前で体を休めるように座り込んでいた。
 玉子塚、昆布塚やおきつね様などは、外国人には思い及ばない日本独特の光景だろう。
 真砂女さんが生きた時代から、築地は大きく変貌した。しかし大切なものは今も息づきこの地に続いているのを見た。
 大切なもの、それは伝統。日本人の心の底に流れ引き継がれてきた、自然への「畏敬」という気持ちだ。 
令和元年7月20日 紅の豚次郎拝 

懐かしの温泉

「遠きとほき山ほど眠る容して」 (昭和45年鈴木真砂女
 この句は、真砂女さんが愛知県犬山市で開催された春燈犬山勉強会で発表したものです。真砂女さんの詠んだ山はアルプスだったのか、どこの山か知りませんが、今年(平成30年5月)私が神奈川県の宮ケ瀬湖から大山(1252m)を望んだ風景も、この句の雰囲気を表しているようです。もっとも宮ケ瀬から大山は遠き遠きと言うほど離れていません。
 お隣さんぐらいの感じです。
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 ところで私は、平成20年8月から毎年夏休みを利用して、北九州市小倉にある妻の実家まで車で帰省しておりました。神奈川県から片道1,000㌔ちょっと、長距離ですが、なかなか楽しいものでした。
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 この写真は阿蘇の南側に位置する垂玉温泉です。平成23年からは2年連続で熊本まで足を延ばして、若い時からの思い出の温泉地である垂玉温泉山口旅館に宿泊しました。義母や妻の姉妹、私の孫まで連れて行って大いに温泉を楽しみました。
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 しかし、私の大好きな阿蘇の垂玉温泉は、この10年ぐらいの間に水害で何回か温泉を破壊されるなどかなり損害を出しました。そして2年前の集中豪雨で地獄温泉ともども壊滅的な被害にあってまだ復興途中です。 
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 かつての本館です。 
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 旅館から少し歩いたところに野天風呂がありました。ずっと浸かっていたくなるとても気持ちの良いお湯でした。
 阿蘇五岳一岳冬も眠られず」(昭和45年鈴木真砂女
 決して自然は眠っているわけではないのですね。いつまでも変わらないようでいて、世の中は目に見えないところでかすかに動いている。
 人生もそうなんでしょうね。
 この数年各地で痛ましい災害が続いております。
 被災地の一日も早い復興をお祈りいたします。
 平穏な日常が早く戻ってまいりますように。

ジオサイト中木へ(6)

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 「しぐるるや切られて白き蛸の肌」(中木にて 昭和44年 真砂女
 真砂女さんは、中木のどこが気に入ったのかな。
 最初は、誰かに石廊崎の奥に中木というところがあって、おいしい料理が食べられるよと教えてもらったのがきっかけだろうか。
 朝、漁業組合の放送が入り「今日の10時から鮑とサザエの漁を行います」とアナウンスが流れた。おや、一日遅く来たら鮑が食べられたのかな?
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 「とこぶしと鮑とならべ春の風」 昭和32年 真砂女)
 伊勢海老漁は10月頃からか。
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 夕食の味噌汁に入っていた亀の手(藤壺も入っていた)。美味しい出汁がでる。身も案外詰まっていた。形は、柱状節理に似ている。何ともジオサイトらしい。
 食べ物の他にはやはり人情だろう。都会にはない、分け隔てのない人懐こさ。誰でも受け入れてくれるような、故郷へ帰ってきたような郷愁。
 民宿上根の居心地のよさ。それは他の民宿にも、今も引き継がれているだろう。
 殿羽根の女将さんが、夏休み中はものすごく混雑すると言っていた。この期間ヒリゾ浜を訪れる人が非常に多いそうだ。おすすめは9月の中旬以降。その頃には静かな中木が戻っているのだろう。
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 最近伊豆がジオパークに認定されたように、ダイナミックな奇岩の景色も魅力的だ。「ジオサイト」の言葉は、「伊豆の山歩き海歩き」というトレッキングガイドブックに出ていた言葉だ。 
 人間の営みなど地球の歴史からみれば、一瞬の風でさえもないのか。ふとそんな思いが頭をかすめた。
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 「夏帯や運切りひらき切りひらき」昭和32年 真砂女)
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 美味しい朝食を食べて満腹だ。
 今日も真砂女さんのように、たくましく潔く生きていこう!
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ジオサイト中木へ(5)

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 そうかー 真砂女さんはその人の襟足に惚れちゃったんだね。
 卯波に来る長年の常連さんから「どうしてあんなつまらない男に惚れたんだ。」と口癖のように言われたそうだ。つまる、つまらないは私のみのことと返事していたようだが、確かに恋というものはそんなものかと思う…
 私たちは、しばらくFTさんのお話しを伺っておいとました。FTさんの屈託のない話しに気持ちが和んだ。きっとまっすぐな生き方をされてきたのだろう。「いつまでもお元気で。」
 「話すことなくとも愉し釣荵(つりしのぶ)」 (昭和30年 真砂女) 
 「誰よりもこの人が好き枯草に」 (昭和33年 真砂女)
 こんなストレートな句を詠まれては、何も言えないではないですか。
 でもなんでこんなに好き同士だったのに、一緒になれなかったのだろう。時代背景があっただろう。それぞれに複雑な事情もあったろう。
 「罪」の意識がぬぐい切れなかったのか。しょせん他人にはわからない。
 「罪障の深き寒紅濃かりけり」 (昭和26年 真砂女)
 「よき妻ならずよき母ならず鳥雲に」 (昭和57年 真砂女)
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 「男はつらいよ(昭和51年 寅次郎夕焼け小焼け第17作)の一場面を引用しておきたい。
 宇野重吉演じる画家の大家青観先生が、昔恋人関係にあった志乃さん(岡田嘉子)の家を訪ねる…
 「先日京都の個展であなたを描いた絵があったはずだが」
 「はい、気がついておりました」…「静かだねぇ」「でもねぇ、あんまり静かなのも独り暮らしには寂しゅうて」「申し訳ない」「どないして」「ぼくには、あなたの人生に責任がある」「和夫さん、昔とちっとも変わらしまへんな、その言い方」「いや、しかし…ぼくは後悔してるんだ」
 「じゃぁ、仮にですよ。あなたがもう一つの生き方をなさっていたら、ちっとも後悔してないと言い切れますか」
 「わたし、この頃よく思うんです。人生に後悔はつきものではないかしらと。ああすりゃぁよかったなあという後悔と、どうしてあんなことをしてしまったんだろうという後悔と」
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 静かな中木の港
 
 

ジオサイト中木へ(4)

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 中木港にある柱状節理の岩山。美しい紋様を描いている。
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 昨年の台風で防波堤に至る通路の橋が二か所とも流されて、復旧されていない。トガイ浜にも行けないが、この夏ごろには通れるようになるらしい。
 さてFTさんは「家に行きましょう」と、私達を案内する。私達が何者かとか何の用件で来たのかも知ろうとしない様子。
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 「どうぞどうぞ」と玄関を開けて上がるようすすめられるまま、靴を脱いだ。民宿としての玄関は道路側に面していたのだろう。「中央ホール」に入ってくるまでの間に二部屋位あるようだ。2階もある。
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 横に2階に上がる狭い階段がある。この写真の左わきには、三部屋あって多人数での宴会も出来るとのこと。結構大きな民宿だ。
 ご主人は83才で亡くなられた。もう商売をやめて14、5年位になる。
 FTさんは、真砂女さんのことは最初わからなかったが、持参した写真を見せると思い出され「おきれいで上品な方だった。」と言う。
 私が上根について書かれている文章を読み上げると、照れくさそうに笑われた。
 『民宿上根さんとは20年来のつきあいである。主人が舟を持っていて伊勢海老の漁期には海老漁を、期間外には魚、鮑などで暮らしをたてていて夫婦ともこの上もない好人物である。』
 「そんなことが書いてあるのかね。」感心した様子。
 私は、「ここ仲木を詠んだ俳句がたくさんあるんですよ」と言った。
 「海老網に暁遠き秋の闇」
 「露寒や死ねと囁く夜の汐」 (昭和42年真砂女)
 真夜中の海老漁を見たくなった真砂女さんが、頼み込んで同船したときの句だろう。
 中木の恐ろしげな夜の海の様子が伝わってくる。
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 昭和49年(1974)伊豆半島地震の発生七日前、真砂女さんは卯波吟行会で仲間10名と上根を訪れた。
 宴会場となる部屋の内庭に一本の杉の木。(たぶん杉の木)もう40年も前のことだから、この木があったとしてもそんなに大きくはなかったろう。
 宴会でカラオケが始まって、恋の歌が続くうち真砂女さんは感極まって泣いてしまう。真砂女さんの大好きだった歌。
 『北の蛍』  歌:森進一 作詞:阿久悠 作曲:三木たかし
 山が泣く 風が泣く 少し遅れて 雪が泣く 女いつ泣く 灯影が揺れて
 白い躰が とける頃
 もしも私が死んだなら 胸の乳房をつき破り 赤い蛍が 翔ぶでしょう
 ホーホー 蛍翔んで行け 恋しい男の胸へ行け
 ホーホー 蛍翔んで行け 怨みを忘れて 燃えて行け
 雪が舞う 鳥が舞う 一つはぐれて 夢が舞う 女いつ舞う思いをとげて
 赤いいのちがつきる時
 たとえ遠くにはなれても 肌の匂いを追いながら 恋の蛍が翔ぶでしょう
 ホーホー 蛍翔んで行け 恋しい男の胸へ行け
 ホーホー 蛍翔んで行け 怨みを忘れて 燃えて行け
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 「火蛾舞へりよき襟あしをもてる人」(昭和24年真砂女)
 ※前回伊豆半島地震についての記載で間違いがありましたので訂正します。
  正しくは、発生日:昭和49年(1974)5月9日8時33分 死者30名 負傷者102名
  震源 石廊崎沖5㌔ 震源の深さ9㌔ マグニチュード6.9 (Wikipediaより)

ジオサイト中木へ(3)

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  ※あいあい岬にある「南伊豆ジオパークビジターセンター」(0558-65-1155)では、伊豆半島の成り立ちを説明してくれる。ジオ菓子なども販売しており、土産物として面白い。 

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 あいあい岬から眺める奥石廊崎。よく撮影される場所だ。この右奥にこれから訪れる中木港がある。
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  あいあい岬の下側には、知る人ぞ知るヒリゾ浜。中木港から渡船で5分くらいで行ける(夏期のみ)。数々のサンゴ、豊富な魚群、透き通った水。
 真砂女さんが、海老漁に同船した場所はこの辺なのだろうか。
 この日はあいにくの曇り空だったが、それでも水のきれいな感じが確認できた。
 どこか非日常の景色を眺めて、伊豆のどん詰まりに来たなという思いに駆られる。 
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 中木港。左右に堤防が見えるが、これは昭和49年5月5日に発生した伊豆半島地震のあと建設された。
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 堤防が作られていない時、こんな風景が浜辺から見えたのかも(堤防の上から撮影)。
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 中木のバス停。もともと「仲木」と書いていたのが、地震後の混乱で「中木」という表記に変わった。
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 バスの本数が、きわめて少ない。早朝出かけたら、帰るのは夕方になりそうだ。
 車が必需品である。民宿の女将さんも軽トラックがないと買い物に行けないと言っていた。朝7時前小学生が一人、バスに乗り込んで行った。どこの小学校に行くのだろう。 
 死者29人の被害をもたらした地震災害。復興対策として3階建てのマンションが出来たが今は空き家が多いらしい。家賃月1万5千円はとても格安だが、どうやって生計をたてるのか。年金だけで生活できるだろうか…
 真砂女さんは、この辺鄙な「仲木」の民宿上根を利用していた。
 当初何故この地が気に入ったのか知りたいという思いがあり、私は是非同じ民宿に泊まりたいと思ったので探した。
 観光協会に「俳人鈴木真砂女さんが昔よく中木に泊まって俳句もたくさん作っているんですよ」と問い合わせると「その名称の民宿は協会員の中にはいない」という答え。上根の電話番号を見つけたのでかけてみたが、現在は使われていないというアナウンス。私は探すのをあきらめた。
 今回宿泊することにした「殿羽根(ドンバネ)」さんの女将さんに予約の際、事情を説明してみると、「上根」はすでに14、5年前に廃業しているということがわかった。しかし、おばあちゃんは健在なので案内してあげると言っていただけた。
 現地に着くと「上根」はすぐにあっさりと見つかった。殿羽根さんの近所だ。 
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  真砂女さんがひいきにした民宿「上根」。道路際にあり、海がすぐそば。しかし正面玄関はぴったり閉められていて人の気配がない。入口もわからない。
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 殿羽根さんもこの並びで数軒先にある。殿羽根の女将さんが、仕事そっちのけで「連れて行ってあげよう」と案内してくれる。ガラガラと上根の左奥にある門を開けて入って行く。声をかけて家に不在とわかると隣の民宿(上根のお子さん経営)で尋ねる。畑に行っているらしい。「それじゃこっちに来て」と山の方にずんずん歩いて行く。 
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 案外中木というところは、奥が深い。狭い谷あいに畑があって野菜がたくさん栽培されている。殿羽根の女将さんは、上根のおばあちゃんがなかなか見つからないので、私たちをおいて声を出しながらさらに奥へ早足で探しに行った。そして… 
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 こちらを少し振り返っている方が、かつて民宿上根を経営されていた女将さんで「FT」さんである。93才くらいと聞いたが、お元気で足取りもしっかり。
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 近所の人と世間話しをしながら、民宿に帰っていると「殿羽根さん、お客さんが着いて待っているよ」の声で殿羽根の女将さんは慌てて戻って行った。
 そばの川では小さな魚が群れを作ってぴちぴちと、元気よく泳いでいた。