紅の豚次郎「真砂女」の俳句旅

俳人鈴木真砂女の「銀座に生きる」をたずねて

鴨川から仁右衛門島へ

 「かねて欲しき帯の買へたり鳥雲に」昭和29年真砂女)
 真砂女さんの俳句の原点は、故郷の安房鴨川にあるだろう。この地を再確認しておきたいと思った。
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 鴨川駅前。午前9時。あまり人通りがない。
 
 「口きいてくれず冬濤(ふゆなみ)見てばかり」 (昭和29年真砂女)
 この句は、真砂女さんによると鴨川時代からなじみだった俳人石田波郷さんを詠んだもので、酒の入っていない時はとりつくしまもないほど無口な人だったそうだ。
 しかし私には、この頃から真砂女さんの運命が密かに動き出しているように思える。
 「そむきたる子の行く末や更衣」(第一句集生簀籠より)                              
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 昭和30年(1955)4月、真砂女さんの生家、旅館吉田屋は全焼した。真砂女さん、時に49才。
 
 「こほろぎや眼は見はれども闇は闇」(昭和30年真砂女)
  灰燼の中で未来が見えぬ中、真砂女さんはこの運命に立ち向うが、もう一人青雲の志をもった大きな男が表舞台に躍り出た。
 それは、鴨川グランドホテル創業者の鈴木政夫氏(真砂女さんの長男=姉の子)である。
 昭和30年というと政夫氏は32,3才の青年で、若旦那と呼ばれていた頃。吉田屋全焼のあと、彼は吉田屋再興のため、獅子奮迅の活躍をみせる。
 彼は、古い旅館経営を革新するために働いた。それを実現するだけの旅館経営のセンスのよさを持っていた。
 彼が銀行から再建のための融資をかち取るまでの逸話。
 『お前は、股を開き相手をにらみつけているのに、相手は行儀よく両膝をつけ肩をすぼめてお前の話しを聞いている。どっちが金を貸しどっちが金を借りるのかよくわからない態度だったので(そばにいた)俺はヒヤヒヤしていたよ』(相談役だった元東京大学経済学部長H先生談)
 政夫氏は再建に当たり、旅館経営の改革に乗り出した。その3本柱。
 ①従業員の待遇改善
 ②個人経営からの脱皮
 ③セールス活動の展開(東京進出)
 吉田屋が昭和31年に再建されてからは、特に『公私の分離』に力を注いだ。
 それは、『たとえ小さな私の娘でも、その点絶対に甘やかさないでくれ。また私も絶対させないから、皆で努力しよう』
 こう言って、旅館内では肉親であろうと物を得るときは金を払うことを徹底させた。
 このあたりの話しはとてもドラマチックである。NHKの朝の連続テレビ小説に取り上げられても高視聴率を取るのではないだろうか。
 口で言うのはたやすいが、徹底してやりきるということはなかなか尋常なことでは出来ないものである。
 政夫氏は吉田屋を再興させ、火災から10年後には吉田屋を売却し鴨川グランドホテルを創業した。
 真砂女さんは、吉田屋の女将になって23年、昭和32年1月10日に吉田屋を離れることになる。何故か。
 政夫氏が徐々に頭角を現してくるうちに、感じるものがあったに違いない。それは経営者としての苦悩だったか。新しい価値観に基づいた経営を受け入れることが出来なかったのか。
 それとも、言うに言えない人生の苦悩がそうさせたのか。
 そして、真砂女さんは潔く飛び立った。
 
 「冬の浪くづるゝ音を立つるかな」昭和32年真砂女)
 明治39年丙午(1906)11月24日旅館吉田屋の三女として生まれ50年、人生の真の挑戦者として真砂女さんの新たな戦いが始まった。
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