紅の豚次郎「真砂女」の俳句旅

俳人鈴木真砂女の「銀座に生きる」をたずねて

鴨川から仁右衛門島へ(3)

  「人のそしり知っての春の愁いかな」(昭和29年真砂女)
 昭和29年は、真砂女さんの句風が転換していった年という。中村苑子さんや成瀬櫻桃子さんによると「情感」、「潤い」、「内省」という傾向が顕著になってきた年と言う。
 さて、仁右衛門島
 何かと魅力に富む島だ。
 およそ830年前、石橋山の戦い(1180年)で敗れた頼朝が、辺境の地であったここ安房に逃れて身を潜め、捲土重来再起した島。
 匿ったのが、平野仁右衛門。この縁で仁右衛門さんは、以来島主として島を代々守り続けている
 (最近TVで、現当主が出て来て後継者がいないため続けられるかわからないと言っていた。それは困る。会社組織にして必ず存続してもらいたい。またそれだけでは困る。島内を整備して、もっと魅力ある島にしてもらいたい。こんな歴史のある島を簡単に終わらせてもらいたくない‼)
 ここに聞こえるのは潮騒の音だけ。ガラス玉のように透き通った海。
 遊歩道を歩いていると、たちまち頭の中が空っぽになり自分が風になったよう。
 頼朝の隠れ穴という洞窟がある。
 そこは今、お稲荷さんが祭られているのだが、その前の暗い境内を覆うようにグニャグニャと曲がりくねった大きな木がある。
 何という名の木だろうか。大蛇の腹のような太い幹が、頼朝の執念を表しているかのようにもんどりうっている。のた打ち回っていると言ってもいいような、不思議な様子の木。
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 「稲妻や島に住みゐる一家族」(昭和28年真砂女) 
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               平野家の玄関口
  この島には人を癒す何かがある。
  …それだけに、もっと維持管理をしっかりして整備すべきだろう。平野家の建物や遊歩道やいろいろ…
 
 真砂女さんはこの島を訪れて、頼朝の復活のパワーをもらっていたのではなかろうか。 
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神楽岩から勝浦方面を望む 
 吉田屋を出たのが、昭和32年1月10日。
 その3か月後の3月30日に「卯波」開店。
 驚くほどの馬力だ。さすが丙午というのか。決断が速い。
 と言っても、前から準備していたのではないようだ。
 真砂女さんが困っていると、手を貸す人たちがたくさん現れるのだ。。
 「降る雪やわれをとりまく人の情」 (昭和33年真砂女)
 
 昭和33年ごろの詠嘆の句。
 「ふるさとのけふ波高き簾捲く」(昭和33年真砂女)
 
 仁右衛門島のさみしい売店で、柳原良平壽屋宣伝部勤務=現サントリー)の絵が描かれている手ぬぐいを土産に買って、私は帰路についた・・・
 金谷フェリー船着き場のそばにある干物屋では、塩辛とホウボウの干物を購入。
 房総の旅は楽しかった。充実感あり。
 さて今日は、一人の夕食だ。
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 ホウボウは、今にも噛みつきそうな顔をしてこちらを見ている。干物のくせに、まだ生きているかのような鋭い目つき。
 「霜下りて醜の魚のうまきかな」(昭和62年真砂女)
 目を合わさないようにひっくり返して食べた。淡白な身でうまかった。
 平成5年にこんな句もある。
 「悪相の魚は美味し雪催」(真砂女)
  …上の二句で詠まれた「魚」は鮟鱇(アンコウ)のこと。