鴨川から仁右衛門島へ(3)
「人のそしり知っての春の愁いかな」(昭和29年真砂女)
昭和29年は、真砂女さんの句風が転換していった年という。中村苑子さんや成瀬櫻桃子さんによると「情感」、「潤い」、「内省」という傾向が顕著になってきた年と言う。
さて、仁右衛門島。
何かと魅力に富む島だ。
匿ったのが、平野仁右衛門。この縁で仁右衛門さんは、以来島主として島を代々守り続けている。
(最近TVで、現当主が出て来て後継者がいないため続けられるかわからないと言っていた。それは困る。会社組織にして必ず存続してもらいたい。またそれだけでは困る。島内を整備して、もっと魅力ある島にしてもらいたい。こんな歴史のある島を簡単に終わらせてもらいたくない‼)
ここに聞こえるのは潮騒の音だけ。ガラス玉のように透き通った海。
遊歩道を歩いていると、たちまち頭の中が空っぽになり自分が風になったよう。
頼朝の隠れ穴という洞窟がある。
そこは今、お稲荷さんが祭られているのだが、その前の暗い境内を覆うようにグニャグニャと曲がりくねった大きな木がある。
何という名の木だろうか。大蛇の腹のような太い幹が、頼朝の執念を表しているかのようにもんどりうっている。のた打ち回っていると言ってもいいような、不思議な様子の木。
「稲妻や島に住みゐる一家族」(昭和28年真砂女)
平野家の玄関口
この島には人を癒す何かがある。
…それだけに、もっと維持管理をしっかりして整備すべきだろう。平野家の建物や遊歩道やいろいろ…
真砂女さんはこの島を訪れて、頼朝の復活のパワーをもらっていたのではなかろうか。
神楽岩から勝浦方面を望む
吉田屋を出たのが、昭和32年1月10日。
その3か月後の3月30日に「卯波」開店。
驚くほどの馬力だ。さすが丙午というのか。決断が速い。
と言っても、前から準備していたのではないようだ。
真砂女さんが困っていると、手を貸す人たちがたくさん現れるのだ。。
「降る雪やわれをとりまく人の情」 (昭和33年真砂女)
昭和33年ごろの詠嘆の句。
「ふるさとのけふ波高き簾捲く」(昭和33年真砂女)
金谷フェリー船着き場のそばにある干物屋では、塩辛とホウボウの干物を購入。
房総の旅は楽しかった。充実感あり。
さて今日は、一人の夕食だ。
ホウボウは、今にも噛みつきそうな顔をしてこちらを見ている。干物のくせに、まだ生きているかのような鋭い目つき。
「霜下りて醜の魚のうまきかな」(昭和62年真砂女)
目を合わさないようにひっくり返して食べた。淡白な身でうまかった。
平成5年にこんな句もある。
「悪相の魚は美味し雪催」(真砂女)
…上の二句で詠まれた「魚」は鮟鱇(アンコウ)のこと。
鴨川から仁右衛門島へ(2)
のどかな漁村の道だった。
暖かな空気の中、仁右衛門島(にえもんじま)に向かって歩いていると、浜にはたくさんの漁網が干されていた。
「海老、鮑生簀を異(こと)に花ぐもり」(昭和46年真砂女)
渡船場の杭に生簀籠がつながれて波間にゆれ浮かんでいたというが、今は見られない。
「生簀籠波間に浮ける遅日かな」(昭和24年真砂女)
真砂女さんは、元日には必ず仁右衛門島の弁財天に初詣に行っていたそうだ。子供のころから遊び慣れた島。
忙しい時は、三艘の舟が次々に島へ人を運んでいたというが、今日客らしき人は私を入れて三人。
艪を使う人は艫と舳先の二人。
「二挺艪の汐切りさばく冬日かな」(昭和40年真砂女)
島は目と鼻の先だが、流れは速いのだろう。
舟の縁から波の底を眺めていると…
「流れ藻のわが舟外るゝ小春かな」(昭和40年真砂女)
こんな自然な感じの句が好きだなあ。
さて、仁右衛門島は、俳句の島である。
真砂女さんの句碑は、平野家の裏木戸を出たところ、北向きに小ぢんまりと建っていた。
出てきた人に、ちょこんとお辞儀をしているようでつつましやか。石は根府川石。
「あるときは船より高き卯浪かな」(昭和26年真砂女)
『小舟が一つ波にあやつられうねりの陰に見えなくなったかと思うと再び姿を見せる。人生も波の山から奈落へ。そして再び浮かび上る。』 (「銀座に生きる」より)
句碑の前には生まれ故郷鴨川の海。
鴨川から仁右衛門島へ
「かねて欲しき帯の買へたり鳥雲に」(昭和29年真砂女)
真砂女さんの俳句の原点は、故郷の安房鴨川にあるだろう。この地を再確認しておきたいと思った。
鴨川駅前。午前9時。あまり人通りがない。
「口きいてくれず冬濤(ふゆなみ)見てばかり」 (昭和29年真砂女)
しかし私には、この頃から真砂女さんの運命が密かに動き出しているように思える。
「そむきたる子の行く末や更衣」(第一句集生簀籠より)
昭和30年(1955)4月、真砂女さんの生家、旅館吉田屋は全焼した。真砂女さん、時に49才。
「こほろぎや眼は見はれども闇は闇」(昭和30年真砂女)
灰燼の中で未来が見えぬ中、真砂女さんはこの運命に立ち向うが、もう一人青雲の志をもった大きな男が表舞台に躍り出た。
それは、鴨川グランドホテル創業者の鈴木政夫氏(真砂女さんの長男=姉の子)である。
昭和30年というと政夫氏は32,3才の青年で、若旦那と呼ばれていた頃。吉田屋全焼のあと、彼は吉田屋再興のため、獅子奮迅の活躍をみせる。
彼は、古い旅館経営を革新するために働いた。それを実現するだけの旅館経営のセンスのよさを持っていた。
彼が銀行から再建のための融資をかち取るまでの逸話。
『お前は、股を開き相手をにらみつけているのに、相手は行儀よく両膝をつけ肩をすぼめてお前の話しを聞いている。どっちが金を貸しどっちが金を借りるのかよくわからない態度だったので(そばにいた)俺はヒヤヒヤしていたよ』(相談役だった元東京大学経済学部長H先生談)
政夫氏は再建に当たり、旅館経営の改革に乗り出した。その3本柱。
①従業員の待遇改善
②個人経営からの脱皮
③セールス活動の展開(東京進出)
吉田屋が昭和31年に再建されてからは、特に『公私の分離』に力を注いだ。
それは、『たとえ小さな私の娘でも、その点絶対に甘やかさないでくれ。また私も絶対させないから、皆で努力しよう』
こう言って、旅館内では肉親であろうと物を得るときは金を払うことを徹底させた。
閑話休題。
口で言うのはたやすいが、徹底してやりきるということはなかなか尋常なことでは出来ないものである。
政夫氏は吉田屋を再興させ、火災から10年後には吉田屋を売却し鴨川グランドホテルを創業した。
真砂女さんは、吉田屋の女将になって23年、昭和32年1月10日に吉田屋を離れることになる。何故か。
政夫氏が徐々に頭角を現してくるうちに、感じるものがあったに違いない。それは経営者としての苦悩だったか。新しい価値観に基づいた経営を受け入れることが出来なかったのか。
それとも、言うに言えない人生の苦悩がそうさせたのか。
そして、真砂女さんは潔く飛び立った。
「冬の浪くづるゝ音を立つるかな」(昭和32年真砂女)
明治39年丙午(1906)11月24日旅館吉田屋の三女として生まれ50年、人生の真の挑戦者として真砂女さんの新たな戦いが始まった。
卯波引いた道(3)
朝の6時23分東京浜松町バスセンターを、安房鴨川行き高速バス「アクシー号」は出発した。1月中旬のことで空はまだ暗かった。
走り始めて2時間半、バスは安房鴨川駅西口に到着。太陽がまぶしかった。気温は1℃。
駅前の通りを旧吉田屋の方に歩いて行く途中に蛇の目寿司さんがあった。
そのまま旅館吉田屋があった場所を目指す。そこはすでに15階建てのマンションになっていたが、看板の裏側に昭和天皇や皇太子が宿泊された旨の記載がある。
旧吉田屋を離れ、足を速めると日本の渚百選「前原海岸」がお出迎えしてくれた。
「冬の波いまわれのみに寄するかな」(真砂女)
小さな波が、ゆっくり穏やかに広い浜に寄せていた。
足あとがほとんどない広い砂浜。右手前の建物が、旧吉田屋跡に建ったマンションである。
目を転じると、写真中央には、鴨川グランドホテルが見え、横に鴨川グランドタワー。真砂女さんゆかりのホテル。
この鴨川グランドホテルの太平洋を臨む庭に、真砂女さんの句碑が立っている。
昭和35年に、真砂女さんが東京会館の句会を指導していた縁で建立された。除幕式では、当時10歳だったお孫さんが引いた。このお孫さんは、下駄の脱ぎ方まで似ていると言われたくらい、真砂女さんによく似ている方だそうである。
「初凪(はつなぎ)やものゝこほらぬ国に住み」(昭和29年真砂女)
真砂女さんの言葉によれば、房総の駘蕩とした新春を詠んだもので、当初この句は「凍らぬ」としていたが、久保田万太郎先生が「こほらぬ」と直したそうである。
卯波 引いた道(2)
は、かつて「卯波」の所在地であった。
この地に、昭和32年(1957)3月30日50歳の真砂女さんは小料理「卯波」を開店させた。
真砂女さんは、藍より紺が似合う。
紺の着物は真砂女さんのユニフォーム。きりっと背筋が伸びた立ち居振る舞い。機敏な動きで店の中を動き回る。
そんな生活の中で、気品を感じる句の数々を作った。
「幸(しあはせ)は逃げてゆくもの紺浴衣」
この思いを胸に、真砂女さんは働いた。午前一時頃店が終って銭湯に駆けつけると、番頭さんが桶を片付け始めているということが毎晩だったという。
その銭湯は、現在では想像もつかないが和光のうしろにあったそうだ。
・・・筆者は、銀座に銭湯がないか探したことがある。
昭和通りから銀座寄りに一本入った通りに「銀座湯」(銀座1-12)がある。
深夜の「卯波」からは、少し遠い。
「水打って路地には路地の仁義あり」
真砂女さんが愛した路地は、どこに行ったのだろう。はるか昔に無くなって…今は高級なお店が入るビルばかり。
『並木通り一丁目、お稲荷さんの路地で魚屋の隣り』。「銀座に生きる」にはそう書かれている。
幸稲荷 (さいわいいなり)
太刀売稲荷とも。 銀座札所一番。
ビルの谷間にあって窮屈そうなお社に、筆者のわずかな滞在中も、おしゃれな銀座の中年紳士や若い女性が入れ替わりに手を合わせていた。
かつて、この脇に銀杏の木もあったというが跡形もなく、このお稲荷さんが唯一「卯波」を偲ばせる痕跡である。
大好きな鴨川を去ったのは、恋に生きた結果だったから?。
真砂女さんが人生をかけた「卯波」は、路地と一緒に無くなった。
「今生のいまが倖せ衣被(きぬかつぎ)」
残っているのは、俳句。こんな句をたくさん残された真砂女さんは、潔い人生を送った人だと思う。
卯波引いた道(1)
朝の銀座4丁目バス停。
築地で買い出しを済ませた真砂女さんは、ここでバスを降り、いつものように店の方に歩いて行った。
松屋の前にさしかかる。
紙袋には烏賊が十杯。ところが水気と重さで紙が破け新鮮な烏賊が
「ゾロリ」と舗道にばら撒かれてしまった。
一瞬逃げ出したい気持ちになった真砂女さん。しかし気を取り直し、着物の汚れなど頓着せず、夢中になって烏賊を全部片づけた。
「秋風や烏賊十ぱいの重さ提げ」
意外に重たかった。
新鮮な烏賊刺しをお客さんに食べてもらいたいと思ったのだろう。
ビニール袋はなかったが、十杯くらい大丈夫と紙袋に入れた。
その日『卯波』で出された烏賊の糸づくりは、格別のうまさだったに違いない。
真砂女さんの女将魂をみる。
昭和49年(1974)の作。真砂女さん68才。
この年の1月真砂女さんは南太平洋へ旅している。南の海に、真砂女さんの華やかな笑顔が咲いたことだろう。
昭和48年の句 「花冷えや 烏賊のさしみの 糸づくり」
準備中です
私が持っているのは、平成10年11月初版の文庫本。
この本は、千葉県房総の名門旅館に生まれスズメとあだ名された幼少時代から、故郷鴨川を出て東京銀座に「卯波」という小料理屋を出し、銀座での生活や旅のことなどを自作の俳句とともに綴った随筆です。
「銀座に生きる」に描かれた銀座を見つけてみよう。そんな気持ちで書き始めましたが、今や、真砂女さんの生きた銀座は激変しました。何もかも。
変わらないもの、ずっと後世に残る真砂女さんの俳句を通じて、変わらない何かを探して行きましょう。「真砂女」の俳句旅です。
真砂女さんは平成15年3月96才の生涯を閉じられましたが、私は真砂女さんの俳句に触れるうちに、きっと幸せな生涯を送られたのだろうという思いを強くしました。
「曼殊沙華もろ手をあげて故郷たり」 (平成7年真砂女)
仁右衛門島の句碑から鴨川グランドホテルと鴨川グランドタワーを望む(中央)