紅の豚次郎「真砂女」の俳句旅

俳人鈴木真砂女の「銀座に生きる」をたずねて

卯波 引いた道(2)

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 東京都中央区銀座一丁目5-14
は、かつて「卯波」の所在地であった。
 この地に、昭和32年(1957)3月30日50歳の真砂女さんは小料理「卯波」を開店させた。
 真砂女さんは、藍より紺が似合う。
 紺の着物は真砂女さんのユニフォーム。きりっと背筋が伸びた立ち居振る舞い。機敏な動きで店の中を動き回る。
 そんな生活の中で、気品を感じる句の数々を作った。
「幸(しあはせ)は逃げてゆくもの紺浴衣」            
 この思いを胸に、真砂女さんは働いた。午前一時頃店が終って銭湯に駆けつけると、番頭さんが桶を片付け始めているということが毎晩だったという。
 その銭湯は、現在では想像もつかないが和光のうしろにあったそうだ。
 ・・・筆者は、銀座に銭湯がないか探したことがある。
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 昭和通りから銀座寄りに一本入った通りに「銀座湯」(銀座1-12)がある。
 深夜の「卯波」からは、少し遠い。
 日本橋から銀座にかけて、風呂屋が一軒もなくなったので署名活動をして都に陳情し、ようやく都営の銭湯ができたのは昭和53年だった。
 「水打って路地には路地の仁義あり」  
 真砂女さんが愛した路地は、どこに行ったのだろう。はるか昔に無くなって…今は高級なお店が入るビルばかり。
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 『並木通り一丁目、お稲荷さんの路地で魚屋の隣り』。「銀座に生きる」にはそう書かれている。          
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       幸稲荷 (さいわいいなり)
 太刀売稲荷とも。 銀座札所一番。
 ビルの谷間にあって窮屈そうなお社に、筆者のわずかな滞在中も、おしゃれな銀座の中年紳士や若い女性が入れ替わりに手を合わせていた。
 かつて、この脇に銀杏の木もあったというが跡形もなく、このお稲荷さんが唯一「卯波」を偲ばせる痕跡である。
 大好きな鴨川を去ったのは、恋に生きた結果だったから?。
 真砂女さんが人生をかけた「卯波」は、路地と一緒に無くなった。
 
 「今生のいまが倖せ衣被(きぬかつぎ)」 
 残っているのは、俳句。こんな句をたくさん残された真砂女さんは、潔い人生を送った人だと思う。