紅の豚次郎「真砂女」の俳句旅

俳人鈴木真砂女の「銀座に生きる」をたずねて

ジオサイト中木へ(2)

 安房鴨川の前原海岸と同じく、弓ヶ浜は日本の渚百選に登録されているが、二つの砂浜は性格が全く異なるようだ。
 真砂女さんは、前原海岸は魂の原点と言えるほど愛しんだけれど、この弓ヶ浜も同様に魂のふるさと、休息の地だったろう。包み込まれるような、内省的な浜辺の曲線がじりじり焼けた心を落ち着かせる。
 真砂女さんは、伊豆急がまだ開通していない戦後、修善寺から天城越えをしてこの弓ヶ浜に何回もたどり着いた。それは想像もつかないほどの難行苦行だったろう。しかも面会時間はわずかの一時間。伊豆急の開通は昭和36年
 石川さゆりの名曲がある。その一節。
 天城越え  作詞 吉岡治、作曲 弦哲也 平成6年(1994年)
 隠しきれない 移り香が いつしかあなたに 浸みついた 
 誰かに盗られる くらいなら あなたを殺していいですか 
 寝乱れて 隠れ宿 九十九折り(つづらおり)浄蓮の滝 
 舞い上がり 揺れ落ちる 肩の向こうに あなた… 山が燃える
 何があっても もういいの くらくら燃える 火をくぐり 
 あなたと越えたい 天城越え 
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 真砂女さんの生きた時代背景を考えれば、相当の「罪」になるだろう。でも、人生80年としても日数に直せば29,200日。地球的な時の長さに比べたら、人の寿命はなんとはかないことか。
 伊豆半島は、この4月にユネスコ世界ジオパークに認定された。100万年前フィリピン海プレートに乗って本州にぶつかって伊豆半島が形成されていったという。
 気が遠くなるどころの話しではない。私達人間の営みなど、一瞬のものでもない。 
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 元「湊海軍病院」の跡地。「共立湊病院」の文字が見えた。
                 ※後ろの建物はなぎさ園と思われる。
 「すみれ野に罪あるごとく来て二人」  (昭和31年真砂女)
 弓ヶ浜に寄りそう二人の姿が思い浮かぶ。ご縁で結ばれた二人。

ジオサイト中木へ(1)

 今回の旅のお供は、妻とハーレースポーツスターXL883L(通称パパサン)。これには丸8年乗って無事故。1年前のスピード違反1回のみ。白バイさん捕まえてくれて有り難うございました。愛車の姿をご紹介します。
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 さて行き先は、真砂女さんが幾度となく泊まったという南伊豆中木。
 出過ぎてしまうスピードを気にしながら、快調に国道135号線を南下した。優美な姿の大島、下田港に停泊していた海上保安庁巡視船の雄姿。5月の平日にもかかわらず人通りの多い伊豆急下田駅界隈。
 私達は、まず弓ヶ浜を目指した。
 「白南風やさざ波たてゝ澄める潮」 (昭和30年真砂女)
 梅雨入り前の弓ヶ浜だったが、遠く望む水平線から爽やかな風が吹いてくる。
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 近くの女子高生だろうか、20人くらいで波打ち際を走っていた。真面目に走って行く子と、かたまっておしゃべりしながら走る子たちと。
 手前は足あとがいっぱい。昨日は日曜日だったから、多くの人が訪れたのだろう。
 再び白南風を詠んだ句。 
 「白南風や砂に大きく愛の文字」 (平成7年以降・真砂女)
 俳句を批評できるほどの者ではないが、青春を想い出させるような若々しい句でこちらが何やら照れくさい。
 疲れかけた体を伸ばして、しばしのどかな風景に浸った。

銀座の桜、銀座の柳(2)

 昼間でも暗い銀座八丁目の狭~い路地を抜けると、(今は昔です)たまに飲みに行っていたバーの入っているビルがあった。

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 バーは看板が出ているので今も何とかやっているようだが、西側と北側のビルは解体作業が進んでいる。ここも風前の何とかではないか。
 「星流れ銀座に古き金春湯」      (平成5年)真砂女 
 金春湯さんは、奮闘努力で頑張っているようである。
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 御門通りで、銀座の柳2世を見つけた。
 西条八十の碑は、銀座ナインのすぐそばにあった。
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 この碑は、昭和29年に建てられていた。
 「銀座の柳」
 1. 植えてうれしい 銀座の柳 江戸の名残のうすみどり
   吹けよ春風 紅傘日傘 今日もくるくる人通り
 2 巴里のマロニエ 銀座の柳 西と東の恋の宿
   誰を待つやら あの子の肩を 撫でてやさしい糸柳
 3. 恋はくれない 柳は緑 染める都の春模様
   銀座うれしや 柳が招く 招く昭和の人通り.
 現在この場所は、観光バスの乗降場所として賑わっている。
 「雑踏に捨てし愁いや柳散る」     (昭和29年)真砂女
 これは、別れた後の淋しさから作った句。
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 銀座の柳四世も見つけた。(御門通りにて)
 ますます賑わう銀座だが、真砂女さんの生きた昭和は遠くなりにけり。

銀座の桜、銀座の柳(1)

   今年(平成30年)は桜の開花が早く、気が気でなかった。
 4月9日、やっと銀座の八重桜を観に行くことができた。
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 「銀座に生きる」に次のような話が書かれている。
 『店から歩いて一分、お稲荷さんの角を右に折れて三十メートルの所に高速道路があり、その両側に四十本の八重桜が植わっている。』
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 『この桜は今から十二年前、桜並木の片側にある酒屋さんの今は亡き御主人が寄附したものである。信州から出て来て、東京で酒屋として成功した記念に苗木を植えたものである。』
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 当初は染井吉野だったが、『車公害に弱くすぐ枯れてしまい、公害に割と強い八重桜に植え替えたそうである。』
 その酒屋さんを、私はずいぶん前に見たような気がするが、通りを往復してもやっぱりなかった。「今は昔」ということなのか。
 「散り残る花に銀座は灯ともしぬ」 (昭和63年頃)真砂女
 卯波の酒は、白鷹特級酒で、これは銀座三越裏通りの酒屋から仕入れていた。今もその酒屋があるかどうか。
 「わが店の酒は辛口夕時雨」 (平成元年)真砂女
 銀座の桜は何とか健在であった。
 次は銀座の柳である。
 『店の路地を出て、お稲荷さんを右手に行けば桜、左手に二十メートル行くと見事な柳の並木である。』と書かれた柳の通りは、最早ない。
 『かの有名な銀座の柳もここだけになってしまった。銀座の中央通りは柳の影すらない。』
 真砂女さんの時代から、銀座の柳は風前の何とかだったわけだ。
 ふと歩道脇にあった観光案内板を見ると、銀座八丁目に西条八十の柳の碑があることがわかった
 並木通りを歩く。
 銀座ママ出勤流れ星流れ星」 (平成元年)真砂女
 どんどん古いものは取り壊され、新しいものが出来ている。 
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鴨川から仁右衛門島へ(3)

  「人のそしり知っての春の愁いかな」(昭和29年真砂女)
 昭和29年は、真砂女さんの句風が転換していった年という。中村苑子さんや成瀬櫻桃子さんによると「情感」、「潤い」、「内省」という傾向が顕著になってきた年と言う。
 さて、仁右衛門島
 何かと魅力に富む島だ。
 およそ830年前、石橋山の戦い(1180年)で敗れた頼朝が、辺境の地であったここ安房に逃れて身を潜め、捲土重来再起した島。
 匿ったのが、平野仁右衛門。この縁で仁右衛門さんは、以来島主として島を代々守り続けている
 (最近TVで、現当主が出て来て後継者がいないため続けられるかわからないと言っていた。それは困る。会社組織にして必ず存続してもらいたい。またそれだけでは困る。島内を整備して、もっと魅力ある島にしてもらいたい。こんな歴史のある島を簡単に終わらせてもらいたくない‼)
 ここに聞こえるのは潮騒の音だけ。ガラス玉のように透き通った海。
 遊歩道を歩いていると、たちまち頭の中が空っぽになり自分が風になったよう。
 頼朝の隠れ穴という洞窟がある。
 そこは今、お稲荷さんが祭られているのだが、その前の暗い境内を覆うようにグニャグニャと曲がりくねった大きな木がある。
 何という名の木だろうか。大蛇の腹のような太い幹が、頼朝の執念を表しているかのようにもんどりうっている。のた打ち回っていると言ってもいいような、不思議な様子の木。
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 「稲妻や島に住みゐる一家族」(昭和28年真砂女) 
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               平野家の玄関口
  この島には人を癒す何かがある。
  …それだけに、もっと維持管理をしっかりして整備すべきだろう。平野家の建物や遊歩道やいろいろ…
 
 真砂女さんはこの島を訪れて、頼朝の復活のパワーをもらっていたのではなかろうか。 
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神楽岩から勝浦方面を望む 
 吉田屋を出たのが、昭和32年1月10日。
 その3か月後の3月30日に「卯波」開店。
 驚くほどの馬力だ。さすが丙午というのか。決断が速い。
 と言っても、前から準備していたのではないようだ。
 真砂女さんが困っていると、手を貸す人たちがたくさん現れるのだ。。
 「降る雪やわれをとりまく人の情」 (昭和33年真砂女)
 
 昭和33年ごろの詠嘆の句。
 「ふるさとのけふ波高き簾捲く」(昭和33年真砂女)
 
 仁右衛門島のさみしい売店で、柳原良平壽屋宣伝部勤務=現サントリー)の絵が描かれている手ぬぐいを土産に買って、私は帰路についた・・・
 金谷フェリー船着き場のそばにある干物屋では、塩辛とホウボウの干物を購入。
 房総の旅は楽しかった。充実感あり。
 さて今日は、一人の夕食だ。
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 ホウボウは、今にも噛みつきそうな顔をしてこちらを見ている。干物のくせに、まだ生きているかのような鋭い目つき。
 「霜下りて醜の魚のうまきかな」(昭和62年真砂女)
 目を合わさないようにひっくり返して食べた。淡白な身でうまかった。
 平成5年にこんな句もある。
 「悪相の魚は美味し雪催」(真砂女)
  …上の二句で詠まれた「魚」は鮟鱇(アンコウ)のこと。

鴨川から仁右衛門島へ(2)

  のどかな漁村の道だった。
 暖かな空気の中、仁右衛門島(にえもんじま)に向かって歩いていると、浜にはたくさんの漁網が干されていた。
 「海老、鮑生簀を異(こと)に花ぐもり」(昭和46年真砂女)
 船場の杭に生簀籠がつながれて波間にゆれ浮かんでいたというが、今は見られない。
 「生簀籠波間に浮ける遅日かな」(昭和24年真砂女)
 真砂女さんは、元日には必ず仁右衛門島の弁財天に初詣に行っていたそうだ。子供のころから遊び慣れた島。
 忙しい時は、三艘の舟が次々に島へ人を運んでいたというが、今日客らしき人は私を入れて三人。
 艪を使う人は艫と舳先の二人。
 「二挺艪の汐切りさばく冬日かな」(昭和40年真砂女)
 島は目と鼻の先だが、流れは速いのだろう。
 舟の縁から波の底を眺めていると…
 「流れ藻のわが舟外るゝ小春かな」(昭和40年真砂女)              
 こんな自然な感じの句が好きだなあ。
 さて、仁右衛門島は、俳句の島である。
 島内には8名の俳人の句碑が建てられている。水原秋櫻子、富安風生、岡本眸、小出秋光、小枝秀穂女(ここまで建立順)。続いて源講修(歌碑)、芭蕉、そして真砂女さん。
 真砂女さんの句碑は、平野家の裏木戸を出たところ、北向きに小ぢんまりと建っていた。
 出てきた人に、ちょこんとお辞儀をしているようでつつましやか。石は根府川石。
 
 「あるときは船より高き卯浪かな」(昭和26年真砂女)
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 『小舟が一つ波にあやつられうねりの陰に見えなくなったかと思うと再び姿を見せる。人生も波の山から奈落へ。そして再び浮かび上る。』 (「銀座に生きる」より)
 句碑の前には生まれ故郷鴨川の海。
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鴨川から仁右衛門島へ

 「かねて欲しき帯の買へたり鳥雲に」昭和29年真砂女)
 真砂女さんの俳句の原点は、故郷の安房鴨川にあるだろう。この地を再確認しておきたいと思った。
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 鴨川駅前。午前9時。あまり人通りがない。
 
 「口きいてくれず冬濤(ふゆなみ)見てばかり」 (昭和29年真砂女)
 この句は、真砂女さんによると鴨川時代からなじみだった俳人石田波郷さんを詠んだもので、酒の入っていない時はとりつくしまもないほど無口な人だったそうだ。
 しかし私には、この頃から真砂女さんの運命が密かに動き出しているように思える。
 「そむきたる子の行く末や更衣」(第一句集生簀籠より)                              
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 昭和30年(1955)4月、真砂女さんの生家、旅館吉田屋は全焼した。真砂女さん、時に49才。
 
 「こほろぎや眼は見はれども闇は闇」(昭和30年真砂女)
  灰燼の中で未来が見えぬ中、真砂女さんはこの運命に立ち向うが、もう一人青雲の志をもった大きな男が表舞台に躍り出た。
 それは、鴨川グランドホテル創業者の鈴木政夫氏(真砂女さんの長男=姉の子)である。
 昭和30年というと政夫氏は32,3才の青年で、若旦那と呼ばれていた頃。吉田屋全焼のあと、彼は吉田屋再興のため、獅子奮迅の活躍をみせる。
 彼は、古い旅館経営を革新するために働いた。それを実現するだけの旅館経営のセンスのよさを持っていた。
 彼が銀行から再建のための融資をかち取るまでの逸話。
 『お前は、股を開き相手をにらみつけているのに、相手は行儀よく両膝をつけ肩をすぼめてお前の話しを聞いている。どっちが金を貸しどっちが金を借りるのかよくわからない態度だったので(そばにいた)俺はヒヤヒヤしていたよ』(相談役だった元東京大学経済学部長H先生談)
 政夫氏は再建に当たり、旅館経営の改革に乗り出した。その3本柱。
 ①従業員の待遇改善
 ②個人経営からの脱皮
 ③セールス活動の展開(東京進出)
 吉田屋が昭和31年に再建されてからは、特に『公私の分離』に力を注いだ。
 それは、『たとえ小さな私の娘でも、その点絶対に甘やかさないでくれ。また私も絶対させないから、皆で努力しよう』
 こう言って、旅館内では肉親であろうと物を得るときは金を払うことを徹底させた。
 このあたりの話しはとてもドラマチックである。NHKの朝の連続テレビ小説に取り上げられても高視聴率を取るのではないだろうか。
 口で言うのはたやすいが、徹底してやりきるということはなかなか尋常なことでは出来ないものである。
 政夫氏は吉田屋を再興させ、火災から10年後には吉田屋を売却し鴨川グランドホテルを創業した。
 真砂女さんは、吉田屋の女将になって23年、昭和32年1月10日に吉田屋を離れることになる。何故か。
 政夫氏が徐々に頭角を現してくるうちに、感じるものがあったに違いない。それは経営者としての苦悩だったか。新しい価値観に基づいた経営を受け入れることが出来なかったのか。
 それとも、言うに言えない人生の苦悩がそうさせたのか。
 そして、真砂女さんは潔く飛び立った。
 
 「冬の浪くづるゝ音を立つるかな」昭和32年真砂女)
 明治39年丙午(1906)11月24日旅館吉田屋の三女として生まれ50年、人生の真の挑戦者として真砂女さんの新たな戦いが始まった。
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