ジオサイト中木へ(5)
そうかー 真砂女さんはその人の襟足に惚れちゃったんだね。
卯波に来る長年の常連さんから「どうしてあんなつまらない男に惚れたんだ。」と口癖のように言われたそうだ。つまる、つまらないは私のみのことと返事していたようだが、確かに恋というものはそんなものかと思う…
私たちは、しばらくFTさんのお話しを伺っておいとました。FTさんの屈託のない話しに気持ちが和んだ。きっとまっすぐな生き方をされてきたのだろう。「いつまでもお元気で。」
「話すことなくとも愉し釣荵(つりしのぶ)」 (昭和30年 真砂女)
「誰よりもこの人が好き枯草に」 (昭和33年 真砂女)
こんなストレートな句を詠まれては、何も言えないではないですか。
でもなんでこんなに好き同士だったのに、一緒になれなかったのだろう。時代背景があっただろう。それぞれに複雑な事情もあったろう。
「罪」の意識がぬぐい切れなかったのか。しょせん他人にはわからない。
「罪障の深き寒紅濃かりけり」 (昭和26年 真砂女)
「よき妻ならずよき母ならず鳥雲に」 (昭和57年 真砂女)
「男はつらいよ」(昭和51年 寅次郎夕焼け小焼け第17作)の一場面を引用しておきたい。
「先日京都の個展であなたを描いた絵があったはずだが」
「はい、気がついておりました」…「静かだねぇ」「でもねぇ、あんまり静かなのも独り暮らしには寂しゅうて」「申し訳ない」「どないして」「ぼくには、あなたの人生に責任がある」「和夫さん、昔とちっとも変わらしまへんな、その言い方」「いや、しかし…ぼくは後悔してるんだ」
「じゃぁ、仮にですよ。あなたがもう一つの生き方をなさっていたら、ちっとも後悔してないと言い切れますか」
「わたし、この頃よく思うんです。人生に後悔はつきものではないかしらと。ああすりゃぁよかったなあという後悔と、どうしてあんなことをしてしまったんだろうという後悔と」
静かな中木の港
ジオサイト中木へ(4)
中木港にある柱状節理の岩山。美しい紋様を描いている。
昨年の台風で防波堤に至る通路の橋が二か所とも流されて、復旧されていない。トガイ浜にも行けないが、この夏ごろには通れるようになるらしい。
さてFTさんは「家に行きましょう」と、私達を案内する。私達が何者かとか何の用件で来たのかも知ろうとしない様子。
「どうぞどうぞ」と玄関を開けて上がるようすすめられるまま、靴を脱いだ。民宿としての玄関は道路側に面していたのだろう。「中央ホール」に入ってくるまでの間に二部屋位あるようだ。2階もある。
横に2階に上がる狭い階段がある。この写真の左わきには、三部屋あって多人数での宴会も出来るとのこと。結構大きな民宿だ。
ご主人は83才で亡くなられた。もう商売をやめて14、5年位になる。
FTさんは、真砂女さんのことは最初わからなかったが、持参した写真を見せると思い出され「おきれいで上品な方だった。」と言う。
私が上根について書かれている文章を読み上げると、照れくさそうに笑われた。
『民宿上根さんとは20年来のつきあいである。主人が舟を持っていて伊勢海老の漁期には海老漁を、期間外には魚、鮑などで暮らしをたてていて夫婦ともこの上もない好人物である。』
「そんなことが書いてあるのかね。」感心した様子。
私は、「ここ仲木を詠んだ俳句がたくさんあるんですよ」と言った。
「海老網に暁遠き秋の闇」
「露寒や死ねと囁く夜の汐」 (昭和42年真砂女)
真夜中の海老漁を見たくなった真砂女さんが、頼み込んで同船したときの句だろう。
中木の恐ろしげな夜の海の様子が伝わってくる。
宴会場となる部屋の内庭に一本の杉の木。(たぶん杉の木)もう40年も前のことだから、この木があったとしてもそんなに大きくはなかったろう。
宴会でカラオケが始まって、恋の歌が続くうち真砂女さんは感極まって泣いてしまう。真砂女さんの大好きだった歌。
山が泣く 風が泣く 少し遅れて 雪が泣く 女いつ泣く 灯影が揺れて
白い躰が とける頃
もしも私が死んだなら 胸の乳房をつき破り 赤い蛍が 翔ぶでしょう
ホーホー 蛍翔んで行け 恋しい男の胸へ行け
ホーホー 蛍翔んで行け 怨みを忘れて 燃えて行け
雪が舞う 鳥が舞う 一つはぐれて 夢が舞う 女いつ舞う思いをとげて
赤いいのちがつきる時
たとえ遠くにはなれても 肌の匂いを追いながら 恋の蛍が翔ぶでしょう
ジオサイト中木へ(3)
※あいあい岬にある「南伊豆ジオパークビジターセンター」(0558-65-1155)では、伊豆半島の成り立ちを説明してくれる。ジオ菓子なども販売しており、土産物として面白い。
あいあい岬から眺める奥石廊崎。よく撮影される場所だ。この右奥にこれから訪れる中木港がある。
あいあい岬の下側には、知る人ぞ知るヒリゾ浜。中木港から渡船で5分くらいで行ける(夏期のみ)。数々のサンゴ、豊富な魚群、透き通った水。
真砂女さんが、海老漁に同船した場所はこの辺なのだろうか。
この日はあいにくの曇り空だったが、それでも水のきれいな感じが確認できた。
どこか非日常の景色を眺めて、伊豆のどん詰まりに来たなという思いに駆られる。
堤防が作られていない時、こんな風景が浜辺から見えたのかも(堤防の上から撮影)。
中木のバス停。もともと「仲木」と書いていたのが、地震後の混乱で「中木」という表記に変わった。
バスの本数が、きわめて少ない。早朝出かけたら、帰るのは夕方になりそうだ。
車が必需品である。民宿の女将さんも軽トラックがないと買い物に行けないと言っていた。朝7時前小学生が一人、バスに乗り込んで行った。どこの小学校に行くのだろう。
死者29人の被害をもたらした地震災害。復興対策として3階建てのマンションが出来たが今は空き家が多いらしい。家賃月1万5千円はとても格安だが、どうやって生計をたてるのか。年金だけで生活できるだろうか…
真砂女さんは、この辺鄙な「仲木」の民宿上根を利用していた。
当初何故この地が気に入ったのか知りたいという思いがあり、私は是非同じ民宿に泊まりたいと思ったので探した。
観光協会に「俳人の鈴木真砂女さんが昔よく中木に泊まって俳句もたくさん作っているんですよ」と問い合わせると「その名称の民宿は協会員の中にはいない」という答え。上根の電話番号を見つけたのでかけてみたが、現在は使われていないというアナウンス。私は探すのをあきらめた。
今回宿泊することにした「殿羽根(ドンバネ)」さんの女将さんに予約の際、事情を説明してみると、「上根」はすでに14、5年前に廃業しているということがわかった。しかし、おばあちゃんは健在なので案内してあげると言っていただけた。
現地に着くと「上根」はすぐにあっさりと見つかった。殿羽根さんの近所だ。
真砂女さんがひいきにした民宿「上根」。道路際にあり、海がすぐそば。しかし正面玄関はぴったり閉められていて人の気配がない。入口もわからない。
殿羽根さんもこの並びで数軒先にある。殿羽根の女将さんが、仕事そっちのけで「連れて行ってあげよう」と案内してくれる。ガラガラと上根の左奥にある門を開けて入って行く。声をかけて家に不在とわかると隣の民宿(上根のお子さん経営)で尋ねる。畑に行っているらしい。「それじゃこっちに来て」と山の方にずんずん歩いて行く。
案外中木というところは、奥が深い。狭い谷あいに畑があって野菜がたくさん栽培されている。殿羽根の女将さんは、上根のおばあちゃんがなかなか見つからないので、私たちをおいて声を出しながらさらに奥へ早足で探しに行った。そして…
こちらを少し振り返っている方が、かつて民宿上根を経営されていた女将さんで「FT」さんである。93才くらいと聞いたが、お元気で足取りもしっかり。
近所の人と世間話しをしながら、民宿に帰っていると「殿羽根さん、お客さんが着いて待っているよ」の声で殿羽根の女将さんは慌てて戻って行った。
そばの川では小さな魚が群れを作ってぴちぴちと、元気よく泳いでいた。
ジオサイト中木へ(2)
安房鴨川の前原海岸と同じく、弓ヶ浜は日本の渚百選に登録されているが、二つの砂浜は性格が全く異なるようだ。
真砂女さんは、前原海岸は魂の原点と言えるほど愛しんだけれど、この弓ヶ浜も同様に魂のふるさと、休息の地だったろう。包み込まれるような、内省的な浜辺の曲線がじりじり焼けた心を落ち着かせる。
真砂女さんは、伊豆急がまだ開通していない戦後、修善寺から天城越えをしてこの弓ヶ浜に何回もたどり着いた。それは想像もつかないほどの難行苦行だったろう。しかも面会時間はわずかの一時間。※伊豆急の開通は昭和36年
石川さゆりの名曲がある。その一節。
隠しきれない 移り香が いつしかあなたに 浸みついた
誰かに盗られる くらいなら あなたを殺していいですか
寝乱れて 隠れ宿 九十九折り(つづらおり)浄蓮の滝
舞い上がり 揺れ落ちる 肩の向こうに あなた… 山が燃える
何があっても もういいの くらくら燃える 火をくぐり
あなたと越えたい 天城越え
真砂女さんの生きた時代背景を考えれば、相当の「罪」になるだろう。でも、人生80年としても日数に直せば29,200日。地球的な時の長さに比べたら、人の寿命はなんとはかないことか。
気が遠くなるどころの話しではない。私達人間の営みなど、一瞬のものでもない。
元「湊海軍病院」の跡地。「共立湊病院」の文字が見えた。
※後ろの建物はなぎさ園と思われる。
「すみれ野に罪あるごとく来て二人」 (昭和31年真砂女)
弓ヶ浜に寄りそう二人の姿が思い浮かぶ。ご縁で結ばれた二人。
ジオサイト中木へ(1)
今回の旅のお供は、妻とハーレースポーツスターXL883L(通称パパサン)。これには丸8年乗って無事故。1年前のスピード違反1回のみ。白バイさん捕まえてくれて有り難うございました。愛車の姿をご紹介します。
さて行き先は、真砂女さんが幾度となく泊まったという南伊豆中木。
私達は、まず弓ヶ浜を目指した。
「白南風やさざ波たてゝ澄める潮」 (昭和30年真砂女)
梅雨入り前の弓ヶ浜だったが、遠く望む水平線から爽やかな風が吹いてくる。
近くの女子高生だろうか、20人くらいで波打ち際を走っていた。真面目に走って行く子と、かたまっておしゃべりしながら走る子たちと。
手前は足あとがいっぱい。昨日は日曜日だったから、多くの人が訪れたのだろう。
再び白南風を詠んだ句。
「白南風や砂に大きく愛の文字」 (平成7年以降・真砂女)
俳句を批評できるほどの者ではないが、青春を想い出させるような若々しい句でこちらが何やら照れくさい。
疲れかけた体を伸ばして、しばしのどかな風景に浸った。
銀座の桜、銀座の柳(2)
昼間でも暗い銀座八丁目の狭~い路地を抜けると、(今は昔です)たまに飲みに行っていたバーの入っているビルがあった。
バーは看板が出ているので今も何とかやっているようだが、西側と北側のビルは解体作業が進んでいる。ここも風前の何とかではないか。
「星流れ銀座に古き金春湯」 (平成5年)真砂女
金春湯さんは、奮闘努力で頑張っているようである。
御門通りで、銀座の柳2世を見つけた。
西条八十の碑は、銀座ナインのすぐそばにあった。
この碑は、昭和29年に建てられていた。
「銀座の柳」
1. 植えてうれしい 銀座の柳 江戸の名残のうすみどり
吹けよ春風 紅傘日傘 今日もくるくる人通り
2 巴里のマロニエ 銀座の柳 西と東の恋の宿
誰を待つやら あの子の肩を 撫でてやさしい糸柳
3. 恋はくれない 柳は緑 染める都の春模様
銀座うれしや 柳が招く 招く昭和の人通り.
現在この場所は、観光バスの乗降場所として賑わっている。
「雑踏に捨てし愁いや柳散る」 (昭和29年)真砂女
銀座の柳四世も見つけた。(御門通りにて)
これは、別れた後の淋しさから作った句。
ますます賑わう銀座だが、真砂女さんの生きた昭和は遠くなりにけり。
銀座の桜、銀座の柳(1)
今年(平成30年)は桜の開花が早く、気が気でなかった。
4月9日、やっと銀座の八重桜を観に行くことができた。
「銀座に生きる」に次のような話が書かれている。
『店から歩いて一分、お稲荷さんの角を右に折れて三十メートルの所に高速道路があり、その両側に四十本の八重桜が植わっている。』
『この桜は今から十二年前、桜並木の片側にある酒屋さんの今は亡き御主人が寄附したものである。信州から出て来て、東京で酒屋として成功した記念に苗木を植えたものである。』
その酒屋さんを、私はずいぶん前に見たような気がするが、通りを往復してもやっぱりなかった。「今は昔」ということなのか。
「散り残る花に銀座は灯ともしぬ」 (昭和63年頃)真砂女
「わが店の酒は辛口夕時雨」 (平成元年)真砂女
銀座の桜は何とか健在であった。
次は銀座の柳である。
『店の路地を出て、お稲荷さんを右手に行けば桜、左手に二十メートル行くと見事な柳の並木である。』と書かれた柳の通りは、最早ない。
『かの有名な銀座の柳もここだけになってしまった。銀座の中央通りは柳の影すらない。』
真砂女さんの時代から、銀座の柳は風前の何とかだったわけだ。
ふと歩道脇にあった観光案内板を見ると、銀座八丁目に西条八十の柳の碑があることがわかった。
並木通りを歩く。
「銀座ママ出勤流れ星流れ星」 (平成元年)真砂女
どんどん古いものは取り壊され、新しいものが出来ている。